3月15日の逃避行 2011

 ( どうなるだ? )
( どうなるだ? )

2011年3月12日、

1号機が水素爆発して、14日には3号機も。

磐越道と並行する国道49号線では、福島から新潟へ避難する車列が続いていました。

新潟空港から日本を脱出しようとする中国の人が、首都圏から新潟へ集まってきていました。

ラジオで専門家の解説を聞き、他国の気象情報から分析した拡散予測を見ていました。雨の日はとりわけ神経質になっていました。

今でもそうかもしれませんが、得た情報によって、人それぞれ行動が異なっていました。私がたまたま、最初に得た情報は、ラジオに出ていた京都大学の原子力の先生でした。風向きによるけれど、原発から100キロ圏を危険視していました。

そして15日には、4号機も。

ここ数日が危ないかもと思いました。

 ( 寝るだ )
( 寝るだ )

15日夕方、ぶうたとぶうたのベットを車にのせて出発。夜、金沢市の旅籠屋に到着しました。

磐越道と並行する国道49号線では、福島から新潟へ避難する車列が続いていました。

15日、ベントに失敗した2号機から放出された大量の放射性物質は、南向きの風に乗って関東地方へ拡散。夕方からは北西への風に変わり、雨も伴って飯館村など北西方向に帯状に汚染していました。

 


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